一本の歯を残す
帰国して病院勤務を始めて間もない頃、ある外国の方が歯の痛みを訴えて来院した。
主訴を聞き、詳しい検査を行った。
結果は下顎の奥の大臼歯の根元に虫歯があり、そのために歯茎もひどく炎症を起こしていた。
歯学部で学んだ教科書に従うなら、抜歯が治療の第一選択肢となるような状況だった。
まだ経験が浅かった私は教科書に沿って数通りの治療計画をその方に提示した。
しかし当然その方は歯を抜くことに躊躇を示し、「何とかならないか?」と繰り返した。
根負けした私は何とかすることを約束したが、「この歯の寿命は1年もないことを覚悟してほしい!」と念を押した。
そこでまず徹底した口全体のクリニーニングから始めた。
その方は問題の歯の治療に直ぐに取り掛かるものと思っていたらしく、しばらくは不満気な表情を浮かべていたが、”どんなに立派な家でも土台が弱ければその結果は目に見えている”と説得しながらクリニーニングを続けた。
さらに”どんな高級車でも手入れしなければ壊れる!”と説明しながら歯磨き指導を徹底して繰り返した。
それらが終わると”いよいよ本丸へ!”とその方は思っただろう。
しかし、まず虫歯部分を取り除いてそこを補強してしばらく様子を見る・・次に補強部分に仮歯を作りしばらく様子を見る・・というふうに、各ステップごとにそれが大丈夫かどうかを確認しながら治療を進めた。
結果として本来なら1ヶ月もあれば済む治療に、半年近くを費やした。 さらに定期検診を必ず続けるように指示した。
それでも私としてはその歯が1年もたないだろうと推測していた・・教科書通りなら最初から抜歯のはずだから・・
さてその方は定期検診に欠かさず来られたが、やがて本国に戻ることになった。
もうこれでこのケースを目にすることはないと思っていたが、1年後にその方から電話で定期検診の申し込みがあった。 それから毎年日本に戻って歯の定期検診を続けた・・実は日本恋しさのめに歯の定期検診を言い訳にして来日していた気配があるが・・
さて15年目に来日した時に例の歯が無くなっていた。 その方は流暢な日本語で「遂にその日が来ました!」「1年のはずが15年も歯が頑張ってくれ、その間は快適に食べることができたました。」と満足げに笑っておられた。
人の身体は”教科書通りではない!”と強く実感したのを覚えている。
それ以来、ダメと思われる歯で教科書に反してまずは残すことを第一選択肢とするようにしている。 勿論、期待通りにいかないこともあるが少なくとも残すことに最善を尽くす価値はあると思っている。
それからも99%ダメだと思いながら治療した歯が何年も頑張ってくれるケースを多く経験している。
それにしても身体は不思議なものだ・・・・