カリフォルニアの歯科大学を卒業してロサンゼルス近郊で開業しはじめ何となく自信がついてきたと思っていた頃、三十代前半の女性が来院した。
物静かというよりは寡黙な女性で、虫歯が気になるということ以外にあまり話をしなかった。
訴え通りに検査でいくつかの虫歯が見つかり、検査結果を見せながら治療計画を説明したが、理解したのかどうかあまり反応がなかった。 それでも次回の予約をされて帰られた。
それからも治療に来院されてもほとんど会話はなく、あまり関わって欲しくないのだろうかと気を使いながら治療を続けた。
大きい虫歯から順番に治療を始めた。 さてその日は上の前歯の間に小さく黒く見える虫歯の治療をした。
その方の次の予約日になった。 予約時間の少し前に一人の女性が元気良くオフィスのドアを開けて入ってきた。
急患が予約なしに来院した(?)と思った・・途端にその方がニコニコとしながら「先生! 元気???」
驚いて、入ってきた方を二度見すると、前回まで笑顔一つ見せず、寡黙で何を問いかけても反応のなかったあの女性に見える・・・・失礼を承知でまじまじと顔を覗き込むと「前回の治療後に家に帰ったら夫と子供も先生みたいにポカンと私の顔を覗き込んでた。」と笑っていた。
話を聞くと・・
「上の前歯の間にあった黒い虫歯が長年気になっていて、毎朝鏡を見ては落ち込んでいた。」
「人前で話したり笑ったりするとその黒い点が見えるんじゃないかと考えると、友達付き合いも疎遠になり、話すときには手を口に当てるようになってしまった。」
「そうなると人に話しかけても聞こえないと言って聞き返されるのでますます人前に出るのが嫌になっていた。」
「もう自分は一生こうなんだと思い込んでいたけど、前回の治療で先生が前歯を何かしていたので、帰りの車の中で鏡を見たら黒い点が無くなってた!」
「運転しながら嬉しくて嬉しくて、人が見たら気味悪るがれるだろうと思うほど笑いながら家に帰ったら、夫も子供に気味悪るがってた・・」と嬉しそうに話した。
その方が最初に来られたときに上の前歯のことは何も言われなかった、と私は思っていた。
実際に何を問いかけてもほとんど会話が成立しなかった。
思い返すとその方が最初に来たときに「虫歯が気になる・・」といって前歯をわずかに指差していたことを思い出した。
しかし口の中には早急に治すべき虫歯が見えたので、そのことばかり説明し、大きい虫歯から治療するように説明していた。
でもその方は本当は前歯の黒い点を何とかしたいとすがる思いで来院されていたのだ。
しかし私はその方の小さいサインを見落とし、他の治療に手をつけ始めた。
医療的に見たら私の治療計画は間違っていなかったかもしれないが、その方にしたら私は間違っていたのだ。
それ以来、私は患者さんの小さなサインをできる限り見落とさないように心がけるようにした。 それでも完璧ではないので、繰り返し話を聞くことを忘れないようにしている。(時々、スタッフに先生は患者との話が長い!と叱られることもあるが・・・)
患者さんが一番訴えたいことにシッカリと向き合うことの大切さを学び、それがなければ患者さんと医療者の間に信頼関係が生まれないことを教えられた。
少し鼻が伸びかけていた駆け出しの私にとってこの患者さんは素晴らしい先生になった。
その後、この患者さんは多くの方を紹介してくれた。