前任者から総入歯のNさんを引き継いだ。
少々難しい症例ではあったが、総入歯そのものはしっかりとしていたので、必要な調整を行って治療を終えたとおもったが、そこから長い付き合いが始まった。
2,3日するとNさんから先日調整した箇所の具合が悪いと電話が入ったので、すぐに来るように伝えた。
来院すると口の中を見せるより先に入れ歯のどこが具合悪いかを書いた図面を手にして症状を説明してきた。
実に詳細な図面だったが、残念ながら先日調整したところとは関係ない場所だった。
ともかくも口腔内の具合が悪いという場所を調べたが、特にこれといった問題が見られなかった。
しかし少なくともご本人がそう感じているのだからと、その辺りを調整して治療を終えた。
それから頻繁に同じようなことが繰り返された。
その都度に問題だという箇所の詳細な図を持参した。
正直に言うと、少々億劫にに感じるようになっていた・・・というのは訴える症状と図面とが必ずしも一致しないことも多々あったからだ。
しかしそれでもNさんはやってくる。
そうなればこちらも覚悟を決め、トコトン付き合ってみようと気持ちを切り替えた。
まず口の中を診る前に図面の説明をじっくりとしてもらう。
その説明をしっかりと頭に叩き込み、それから口の中を診ながら症状を細かく聞きながら確認する。
そのようなことを繰り返しているうちに徐々に気づいた。
それは、症状と図面が一致しないというのは私の思い込みであったということだ。
実はNさんの訴える症状が図面の箇所に影響を及ぼしていたのだ。
それが理解できたら、それからはNさんが口を開く前に持参した図面を見ただけで症状か分かるようになった。
こうなると「阿吽の呼吸」というのだろう・・・それまではNさんはあれこれ細々と説明していたのに、来院すると私に図面を手渡すだけになってきた。
Nさんからは本当に沢山のことを教えられた。
総入歯がどんな症状を起こし・・どう調整すればどうなるのか・・
こんなに具体的にしかも明瞭に総入歯の症状や問題箇所を指摘できるというのは凄い!
Nさんとの経験がそれからの入歯作成にどれほど役だっただろう。
本当は治療費をもらうのではなく、こちらが勉強代を払わなければならないほどだ。
しばらくNさんの来院が途絶え、気になっていた。
半年以上過ぎた頃に奥様に付き添われて来院された。
大病をされて入院中だという。
しかし、図面を見ただけて処置してくれる私のところにどうしても来たいと、病院を抜け出てきたらしい。
奥様はご主人を病院から連れ出すなんてと子供達に叱られた、と苦笑しておられた。 当然だろう。
それでも何回も病院を抜け出して来られた。
しばらく音信が途絶え、気になり始めた頃に奥様がお一人で来院された。
実は「夫は『明後日、歯科に行く』と嬉しそうに図面を描いていたが急変して息を引き取った。 これが最後の図面です。」と一枚の紙を渡された。
紛れもなくNさんの描いた図だ。
これなら少しだけ噛み合わせが滑ったけど痛いところはなかったはずだ・・・・
涙が流れた。