冬季オリンピック開会前に昔の名場面などが多々放映されていました。子供のころに比べると段々興味が薄れて来ていますが、懐かしい映像を見るとスポーツおたくの私にはいろいろな思いでが蘇って来ます。
札幌の日の丸飛行隊、長野のスケート清水選手の映像が流れました。
札幌のジャンプ代表で一人だけメダルを取れなかった藤沢隆選手がすぐに思い出されます。
彼はそれまでの日本ジャンプ陣を引っ張って着た功労者でした。前年度には欧州のジャンプ週間で何勝もしていて、日本を代表する名選手だったのです。
残念ながら本番の地元のオリンピックの年には不調に陥りました。70メートル級(当時はノーマルヒルをそう呼んでいました)の1本目はいいジャンプをしましたが、2本目で下位に沈みました。
4人の日本代表が並んでいるシーンがよく出て来ます。一番右で少しうつむき加減で手を振っているのがただ一人メダルから遠ざかった藤沢選手です。どんな思いだったのか・・・、我々には想像もつかない思いでしょうね。
長野オリンピックの映像では、スピードスケートの清水選手が大柄なヨーロッパの選手を左右に従えて金メダルを嬉しそうに掲げていました。
私には堀井学選手のことがすぐ思い出されます。やはりずっと日本、いや世界のトップを走ってきた選手です、その前(だったかな?)の大会では銅メダルをとりました。地元長野では金メダルの有力候補でした。今は議員さんですね。
この大会の前にスケート靴に革新が起きていました。スラップスケート、今はみなこのタイプの、ブレードが後ろの部分が靴に固定されていないスケート靴を履いているらしいです。
すぐに新しい靴を試して使い始めた選手と、少し試すのが遅れた選手とに別れました。まさかそんなに大きな違いが出ると思わなかった選手も多かったのでしょう。
清水選手は前者、堀井選手は後者でした。スラップスケートに適応する時間が足りなかったのでしょう。全く滑りに精彩を欠いて下位に終わった堀井選手が目に涙を光らせながら気丈にインタビューに答えていた場面が忘れられません。
藤沢選手も堀井選手も美しき敗者でした。
私がアメリカにいた時にレークプラシッドで冬季五輪が開かれました。地元の大会でしたからアメリカでは連日オリンピック特集が組まれて大騒ぎでした。
この大会のスピードスケートで男子の5種目全てに金メダルと言う(おそらくもう2度とこういう快挙は達成されないと言われています)物凄いパフォーマンスを見せた21歳のエリック・ハイデン選手のことは忘れられません。
オリンピック前からとても話題になっていていろんな番組で紹介されていました。妹さんのベス・ハイデン選手も金メダル候補でしたが、プレッシャーの中アメリカが期待した結果は出せませんでした。
試合後のインタビューでベス選手が「本当にあなた達は・・・!」とマスコミに怒りをぶつけていたのも忘れられません。どこの国でも一緒ですね。選手たちに必要以上にプレッシャーをかける人たちがいます。
それに比べてエリック選手は本当に「飄々として」と言う言葉がぴったりの選手でした。ものすごいプレッシャーがあったはずですが、彼はそれを感じさせることなく戦い抜き、ヨーロッパの、いや世界中の選手、観衆を驚かせたのです。
オリンピック後のあるトークショーで(ジョニー・カーソン・ショーだったかなぁ?)「自転車やりたいんだ」と言っていたのが新鮮でした。
そのあとメディアに出なくなり、どうしていたのか?と思っていましたが。あっさりスケートから引退して医学部に入り整形外科医となって活躍しているそうです。スケートでお金をかせごうとは思っていなかったそうです。この頃が、本当のアマチュア選手が活躍した最後の時代かも知れませんね。
自転車競技も始め、北米の大会では優勝し、なんとツール・ド・フランスにも出場したというのですから、ほんとうにすごい・・・、と言うのか何というのか表現のしようがありません。ただあのレークプラシッドでは、まさに絶対王者でした。
モーグルの上村選手は残念でしたが、きっと彼女も「美しき敗者」として記憶に残る選手になるのでしょう。そして、それはもはや敗者ではないのかも知れませんね。