前に小さな親切のことをブログに書いた事がありました。そのときに、自分がどんなに小心者なのかということの例えに、人前で目玉焼きを食する時に、どの時点で黄身をつぶすのかといった些細なことさえ悩んでしまった若い頃の思いを書きました。
その時、そうそう、あの頃読んだ伊丹十三さんの「女たちよ!」にえらく共感したよなぁ・・・、と思い出して懐かしくなりました。
高校生の頃、同級生の間で話題になっていて、読んでみたら面白くって、面白くって・・・。多感な時期に、そしてまだ海外の情報やら、あまり入ってこなかった時代です。影響されましたねぇ・・・。
今のような情報過多の時代と較べるとまぁのんびりした時代だったかも知れません。なにしろ私の子供の頃はスパゲティーと言うものは、茹でたスパゲティーをケチャップで炒めて作るものと思っていましたし、カレーにはソースをかけて味付けしないと不味くって食べられなかったものです。
フレッシュジュースなんぞというものはなく、ジュースはジュースの素という粉を水にとかして飲みました。(さすがに高校生のころは少し変わって来ていましたが、)
「北京の55日」や「ロード・ジム」の撮影で長くヨーロッパなど海外に滞在した彼のエッセイは、本当にかっこよくって、洒落っ気があって、いろんなことを教えてくれたし、またとっても共感する部分もあったですし、なにより私たちの価値観を少し変えたかもしれません。
もうひとつの「ヨーロッパ退屈日記」もすぐに読みました。こちらのほうが早い出版ですが、当時のヨーロッパ事情が盛り込まれ、知らなかったことがいっぱい。本当に面白かったなぁ。この2冊を読んだあと、少しだけ「違いのわかる男」、になったような気分になったものです。
さて、目玉焼きの食べ方です。若い頃は、今は失ってしまった恥じらい、見栄など様々な感情がいっぱい自分の中に詰まっていました。自意識やや過剰、カッコつけたい年頃でもありました。
友達と食事するときに、たまたま目玉焼きが出てきたときに、なんかどうやって卵の黄身を食べようか?食べ方がみっともなく見えないかなぁ?とか何故か心配になってしまったものです。
そんな事に悩んだ事がない方も多くいらっしゃるかと思います。そういう方々にはこの感情が理解出来ないだろうことと思いますが、そんなつまらぬ事に悩む人間もいるとだけご理解頂ければよいかな?
誰も見てなければ、黄身に口を付けて吸い取ってみたり出来るのだけど・・・。周りの白味を先に食べちゃって最後に黄身を一篇に口に入れるってのも、なんかみっともなくないかなぁ・・・?でも潰しちゃうと、黄身が皿に流れて綺麗じゃないし・・・、とか悩んでしまう少年でした。
同じ悩みをお持ちだった方がいらっしゃったら、あなたは私の仲間です!そして伊丹十三さんもそうだったのかも知れません。
「女たちよ!」の中に、目玉焼きの正しい食べ方、と言うエッセイがあります。
「目玉焼きというのはどうにも食べにくい料理である。正式にはどうやって食べるものなのか。こうだ、という自身のある人にかつてお目にかかったことがない。・・・・」という出だしで、ウイットに富んだ文章が綴られています。最後に「私の用いている方法をいおうか。・・・」と彼の食べ方を教えてくれます。
私は一度でいいからその方法を試してみたかったのですが、いまだにその勇気が出ずに今に至っています。多分出来ないままに人生が終わりそうです。
のちになって、全てが正しかったわけでもなかったことには気づきました。なんせ彼が30代前半に綴ったエッセイです。高校生だった私には本当に新鮮でしたが、今はまた違う感じ方でとらえる事が出来ます。そしてなお、伊丹十三さんの感受性、観察眼、ユーモアには読んでいて微笑まざるをえないことが度々です。
さて伊丹氏オリジナルの目玉焼きの食べ方です。
「これは非常にインテリ臭い食べ方である。すなわち、この文章と同じことを、喋りながら実演すればよいのだ。」
「ネ、こうやってさ、白身から食べる人がいるけど、あれはやだねえ。こんなふうに黄身だけ残しちゃってさ、それを大事そうに最後に食べるんでやがんの。ホラ、こんな具合!」
ま、結構騙されましたよね。あの頃は・・・。