北の湖親方が逝ってしまいました。
私と同学年でもあり、両国中学出身であることなどから、気になる存在でもあった大横綱でした。
私たちの時代は都立高校に入るには、学区内の高校に限られていました。葛飾区に住んでいた私は第六学区、墨田、江東、江戸川、葛飾区の中学生たちは六学区の(都立ならば)高校を受験しました。
両国中学も同じ学区でしたから、私の行った墨田川高校にも両中出身の同級生がたくさんいました。(4~50人いたんでしょうか?私の出た堀切中学からは2人しか入れませんでしたが)
今は相撲界では中学を卒業してからでないと力士になれませんが、当時は中学生で力士になって相撲をとっている人たちが大勢いました。
地方から来て相撲部屋に入った子供たちは両国中学に通う子が多かったようです。当時は相撲部屋は殆ど両国近辺にありましたから。
ですから両国中学出身の私の同期生たちはまさに北の湖(小畑少年)の同窓生だった訳です。
彼らに聞くと、やはり北の湖は他の相撲取りの同期生の中でも一人飛びぬけた存在感があったそうです。
最年少で横綱に昇進し、横綱として最多勝、など記録も残していますが、輪島との数々の名勝負など、記憶に残る名横綱でした。
いまでも記憶に残っているのは、恐らく北の湖がまだ三役の頃、横綱輪島に勝った相撲です。輪島が得意の左下手投げに行くところを逆に右の上手投げでしとめました。
直後の勝利者インタビューで、「下手投げに来ることは解ってたから、上手投げで返してやろうと思って待ってました・・・。」と、不敵というか、ふてぶてしいコメントを残したことは忘れられません。
もうひとつ、ある場所で優勝争いをしていた北の湖が結び前の一番で勝って、勝ち残りでたまりに座っていた時のことです。北の湖を援護するべく弟弟子の北天佑が(優勝争いをしていた隆の里との一番だったらしいです。)見事にライバルを下しました。その勝利によって13日目で北の湖が優勝を決めたのですが、土俵上の北天佑と立ち上がって帰ろうとする北の湖の目が合って、ニコッと笑い合いました。
まるで大関北天祐が「兄貴!やったぜ!」と言っているようなアイコンタクトがいまだにに記憶に残っています。この場面は多くの方々が覚えていらっしゃるようです。ユーチューブでもこの場面が見られます。
その怪力(握力が100キロあったそうですが)北天祐は45歳の若さで亡くなりましたが、兄貴分もまだ若い62歳で弟分のところへ旅立ってしましましたね。
ご冥福をお祈りします。