若い頃坂口安吾が好きでいろいろと読みました。「堕落論」や「白痴」などが有名ですが、私にはよく解らず、特に印象はありません。彼のエッセイがとても面白く、「ウン、ウン、その通りだ!」なんて思いながら読んでました。
「安吾巷談」のなかの「世界新記録病」、「勝夢酔」、「安吾史譚」のなかの「小西行長」、「源頼朝」等々・・・、ふんふん・・・、と思いながら読みました。
今日は「源頼朝」のなかで、そうかもしれないなぁ・・・、と思わされたくだりについて書いてみます。
前半生の頼朝に関しては、平治の乱で捕らえられ、命乞いをしてまでなんとしてでも生き延びようとする情けないほどに惨めなオトコだ、というように結論付けています。挙兵したものの石橋山で敗れ、山中を逃げ回るところまでは、なんとも情けない凡人として語っています。
ところが伊豆から房州へ船で逃げ延びてからの頼朝は開き直ったかのように人が変わります。二万の大軍を連れ、たった三百の手勢しか持たない頼朝をひやかしに来たかのような上総権之助広常はその別人のような頼朝の気迫に押され、一気に心服して配下となったのでした。
「それからの頼朝は本来の堂々たる大将軍であり大政治家であった。・・・・中略・・・、私は判官ビイキにも反対ではないが、義経には民を治める特別の識見も才能もありゃしない。その点になると月とスッポンぐらいの差があるから、判官ビイキの観点だけで二人の人物を比較するのは全然お話にならないのである。」
坂口安吾は最後にこう結んでいます。私がほぉ~っ、と感じたのはこのエッセイの中段くらいかなぁ・・・、
「伊東を逃げてからの頼朝は暫くはヤブレカブレの心境だったかも知れない。北条の娘に恋文を送った打算的なところなどは、彼が将軍となって行った経綸の堂々と正道を行く策やカケヒキに比べると、いかにもミジメな窮余の策で、後日の彼の真骨頂たる風格とは遠いものがある、
窮すれば誰しもミジメになるもので、それは見てやらぬ方がよい。盛運順風の時に何を行ったかが大切で、第一、人が窮した時に行うことなどは天下の大事に及ぶ筈はないのであるから、とるにも足らぬことだ。」
という件です。それまでは「苦しい時にこそ強く正しく生きれるかが人物の本来の姿が現れる・・・」といったようなことを言われる方が多かったように思います。強くなければいけない・・・、と思い込んでいた私には新鮮な考え方でした。
彼の「源頼朝」は幸田露伴の「頼朝」を参考にしたと思われる部分があるが、独自の見解からユニークな頼朝像を提示している・・・、本格的な歴史評論である。という研究がなされています。
身長180センチほどと当時としてはかなりの長身だった彼はインターミドル(今のインターハイにあたるのかな?)で走高跳で日本一になったこともあるスポーツマンでもあり、スポーツに関するエッセイもとても面白く読みました。
彼の同年代には、後に世界記録を打ち立てたりオリンピックで金メダルを取ったりした織田幹夫さんや南部忠平さんがいた中での日本一ですから凄いものですが、彼は泥んこのグラウンドで一人だけ違う方向から助走していたのだから、他の選手たちが踏み切りの時にずるずる滑って記録が出なかったから勝てたのであって単なるマグレだ、と謙遜していますが、それにしてもたいしたものですよね。
青春論、恋愛論的なエッセイにも強く影響された私でしたが、歳を経て「いやぁ、安吾には騙されたわい!」と今は思う事も多いんです(笑)。私はもう坂口安吾が逝去した49歳をはるかに越えていますしね。
でもこの安吾史譚、特にこの「源頼朝」に対する考察、先ほど記したあの件(くだり)には、年を重ねる毎に共感するものが強くなっていくのです。