新原歯科医院

院長ブログ

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糖尿病とアミノピュア

ずっとご夫婦で一緒に検診にいらしていた患者さんがいます。一昨年奥様が一人でいらっしゃいました。「主人がちょっと病気になりまして、今回は私一人で・・・」とおっしゃいました。詳しくお聞きすることも失礼か、と思い、ただ「ご主人に宜しくお伝えください・・・」とだけお話ししました。

 

昨年秋に久しぶりにご夫婦ご一緒の予約が入りました。「いやぁ、良くなられたのかな?」といらっしゃるのが楽しみになりました。

 

そして当日久々にご主人の検診でお会いしますと、「実は癌になっちゃってさぁ・・・。」なんと胃がんの手術をして、しばらく抗がん剤治療を続けられていたとの事でした。再発もなく、体力も回復して、ここまで出てくる元気が出たそうです。いやぁ~、良かったよかった・・・。

 

やはり入院生活やその後の療養期間、かなり筋力が落ちてしまい、大泉学園から四ツ谷まで来るのにかなり疲れてしまった様子です。散歩などして体力の回復には努めているそうですが、お年でもありますから、中々もとには戻らないようです。

 

アミノピュア(L-グルタミン)にはいろいろな効能がありますが、免疫を強める、また筋力の回復を助ける・・・、と言った効果もあります。「よかったら、お試しください。」と250グラムボトルを差し上げました。ダメもとで、少しでも何かの助けになれば・・・、と思ったのです。

 

今年になりまして、少し歯がしみる、と訴えていらっしゃいました。診てみると虫歯発見です。早速治療を始めました。その合間にお話しをしていましたが、アミノピュアが意外な効果を生んだことを発見しました。

 

この患者さん、実は以前から糖尿病もありまして、いつもその検診に行かれていたそうなのですが、最近の検診で検査をしたところ、数値が良化していたんだそうです。

 

患者さん曰く「ほかに何も変わったことしてないし、あるとすれば先生がくれたアミノなんとかしか考えられないんだよなぁ・・・」その効果なのかは分かりませんが良くなっているならそれはいいことです。

 

その後根本先生の患者さんで長く糖尿病で通院されている方がいらっしゃいまして、根本先生がその方にアミノピュアを差し上げました。その後数週間してその患者さんからお礼のハガキが届きました。

 

彼女には数値が良化するだけでなく、実感できる効果があったのです。長年辛い思いをして来た体調がとても良くなって、生活の質が向上したことに喜んでいるとの嬉しい知らせでした。

 

内科医の弟に話しました。アミノピュア(L-グルタミン)はヘモグロビンA1c(HbA1c、血糖の状態・・・血糖値の高低を見るための数値)の数値を下げる効果がある事が分かって来たとの事でした。

 

メカニズムはわかりませんが、(ずべてのケースにするわけではないでしょうが・・)糖尿病にある程度の効能があるに思えます。同じ悩みをお持ちの方には一度試して見ることをお勧めしたいと思っています。

 

 

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若冲フィーバー

最近伊藤若冲の特集・・・、のようなテレビ番組をよくやっています。今、上野の都立美術館で伊藤若冲展をやっているからでしょう。

 

ただ、一つの展覧会の為にこれほど特集番組が組まれることも珍しいように思います。何故か最近、伊藤若冲が急に脚光を浴びるようになりました。

 

私も少しだけその手の番組を(ちょっとだけ)のぞいてみました。なるほど・・・、いろんなハイテク技術まで駆使して若冲の世界の先端を行っていたテクニックなどが紹介されていたり、感心することしきりな内容です。

 

あまり難しい事には興味がないので最近飽きっぽくなって来ている私は最後まで通して見る事が出来ませんでした。(笑)実は私も伊藤若冲に心を奪われた一人なのですけれどね・・・。

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この連休にでも観に行ってみようか?と思っていましたが、これだけ特集を組まれるとかなり混むだろうな、と結局足を運ぶこともありませんでした。

 

初めて伊藤若冲を知ったのはサントリー美術館でした。あれはいつだったのかな?と美術館のホームページで展示歴を調べたところ、1984年でした。今はミッドタウンにある美術館ですが、あの頃は赤坂見附にありました。

 

「異色の江戸絵画・アメリカ・プライスコレクション」と銘打った展覧会でした。日本画の収集家として有名なプライスさんのコレクションの里帰り展、といったもので、特に若冲の特集と言う事ではありませんでした。まだあまり若冲は注目されていなかったのでしょう。

 

今も昔も美術には、さほどの興味も知識も持っていない私ですが、何故行ったんだろう?若い頃(日本に帰って来た頃ですね)高校時代からの友人のKm君がとてもそういう事に博学で、少し影響された事もありました。また、10年間海外で暮らしてきて、逆に日本の事に興味が少し湧いていたと言う事もあったのでしょう。

 

このころ浮世絵であったりこういう江戸絵画であったり、展覧会があるとなんとなく足を運んでいました。そう、ただ足を運んでいただけです。元々Kmくんのように美術が好きだったわけではありませんから、特に印象に残っているものもありません。ま、ちょっとカッコつけで展覧会通いをしていたのでしょう。

 

ただ、この時のサントリー美術館での幾つかの絵には目を奪われました。なんて綺麗なんだろう!と思って暫く眺めていたのが伊藤若冲の絵たちでした。そして他の、酒井抱一や、他の絵師たちの絵にも感動を覚えましたが、若冲の絵にはまさに心を奪われてしまったようです。

 

そのあとでKmくんに話をしてみると(何しろ若冲の読み方も知りませんでしたから)「伊藤なんとか、って言う人だけどさぁ・・・」とか言うと、「じゃくちゅうはねぇ・・・、」と難しそうな顔をして彼のうんちくが始まりまして、殆ど一瞬で忘れた私ですが、「あぁ、ジャクチュウって読むんだったんだ・・・」と読み方だけはその時に覚えました(笑)。

 

その後も幾つかの展覧会で伊藤若冲の絵が出典されると聞けば、行って若冲の絵だけ見てさっと帰って来たりしていました。

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連休の間に衣替えがてら整理をしていたら出て来たその頃のお土産です。

 

別に深くまた隅々まで読んで研究したりする筈もありません。ちょっとパラパラ眺めてしまってあったものです。ですから、特に何か詳しくなった訳でもなし。いつものことでありますね(笑)。

 

今回ウイキペディアを見て見ましたら、(ウイキがどこまで正確なのかわかりませんが)江戸時代には人気のあった若冲も明治になってから徐々に人に知られなくなっていった・・・、と書かれていました。

 

江戸時代の京都では「平安人物志」と言う、まぁ「Who`s who」みたいな当時の名士、文化人たちの人名録のようなものが刊行されていまして、ほぼ10年前後の間隔で1768年から10版だったかな?出されたそうです。それには絵師であれば人気ランキングも入っていたそうで、私が以前何かで読んだ時には若冲は丸山応挙に次いで2位だったと書いてありました。

 

今回ちょっとチェックして見ましたが、その年度によって2位であったり3位であったり、まぁ常に人気上位だったのですが丸山応挙の人気にはかなわなかったようです。因みに他の上位人気絵師には与謝蕪村、池大雅、等が常連で名を連ねています。蕪村は画家でもあったんだね、私の無知をさらけ出すようですが全く知りませんでした。

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丸山応挙さんは当時は常に人気ナンバーワンだったのに今はどう評価されているんでしょうね?ある美術評論家は「応挙は日本の絵画を本当につまらなくしてしまったと思うが、一面では実に革新的な画家であり、少なくとも歴史的な意義は重要と言える。・・・」と書いています。へぇ~~(驚)

 

20160508_125251この本に書いてありました。

 

ちょっと厳しい言い方だなぁ・・・。応挙さん可哀想。難しい事はわかりませんけど、私は応挙さんの絵たちも好きですよ。

 

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若冲がこうして注目されるようになりましたが、他の絵師たちの作品にも少し光が当たってもいいのではないかなぁ・・・。伊藤若冲がそうでしたが、外国で評判が高くなって初めて日本でも注目されると言う不思議な逆循環が時としてありますね。日本の漫画文化なんてまさにそうでした。「いい歳をして漫画なんか読んで・・・」とか言われた次期もありました。

 

でも確かに若冲さんの絵はいつ見ても美しい・・・。

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ところでウイキペディアによると、「明治以降忘れ去られて行った・・・」とありましたが、明治時代にはまだその名はまだまだ通っていただろう事を私はある小説から感じていました。

 

20160510_161645新潮社文庫では33ページです。

 

夏目漱石の「草枕」の一節です。そう、あの逸話の宿の部屋に通されたときの描写です。床にかかっていた・・・、と言う事ですから掛け軸なんでしょうか?こうして普通に小説の中で若冲が使われていたわけです。

 

夏目漱石ほどの文化人だからこそ知っていたと言う事もあるのかも知れませんけど・・・。

 

このことを思い出して、草枕のどのあたりに若冲の名前が出てきたんだったかな・・・?と捜すために読み流していましたら、いやぁ~、前に読んだときは気にも留めませんでしたが。彼の教養があちこちに示されていましたね。美術、文学、歴史、音楽・・・、さまざまな分野にわたっての記述がさりげなく、あちらこちらにちりばめてありました。巻末の注解を読むだけでかなり勉強させられます。夏目漱石恐るべし!だなぁ・・・。

 

文系の方がたにはどうともない事かも知れませんが(そう、若冲の読みを教えてくれたKm君のように皆さんよく知っているのでしょうね)、理系の私にしてみると驚愕、尊敬です。

 

Kmくんとはもう長い事ご無沙汰だなぁ。数学が苦手で高1のときに赤点をとって泣きそうな顔で「落第しちゃうよぉ・・・」と言っていたほど理系教科はダメだったけど、文学、美術に関しては尊敬する知識人でしたね。絵も上手だったなぁ。今年の同期会には出て来てくれたらいいな、と思っています。

 

さて伊藤若冲生誕300年とのことで都立美術館で開催されている若冲展も来週の5月24日(火)で終わってしまいます。今回は見にいけそうもありません。皆さま楽しまれたんだろうなぁ・・・。

 

 

 

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お花畑

桜が終わるころ、総武線市ヶ谷駅から四ツ谷駅の間の線路沿いにプチお花畑が出現します。

 

雙葉高校のあたりから市ヶ谷にかけての線路沿いの土手です。毎年この時期には朝の電車の左側の窓から一瞬で通り過ぎるこの風景を楽しんでいます。

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電車から見ると綺麗に見えるんですけど、上からだとうまく写りませんね。スマホのカメラでは色も綺麗に映らないなぁ・・・。雑草なんでしょうけど、(名前をしらべようとも思いませんが)ラベンダー色って言うんでしょうかね?公園や観光地にあるような綺麗なお花畑とは比べられませんが、野性味のある美しい色です。

 

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電車が走り抜ける一瞬しか見られないからじっくり見ている時間もありません。それで余計綺麗に見える気がするのかも知れません。

 

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中央線のホーム沿いにも小さなお花畑があります。同じ花ですね。

 

写真を撮ろうと線路沿いの遊歩道を歩いていたら、雙葉の前辺りにこんな花が咲いていました。あの桜並木の遊歩道です。美しいものはあちらこちらにあるものですね。

 

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数年前、北の空が大きな悲しみに包まれました。その深い傷がいまだ癒えぬ今、南の大地が苦難に襲われています。言葉がありません・・・。

 

身近なことから離れると、世界中のどこかで常に悲しい出来事が起きているのでしょう。

 

自然の営みは時として理不尽な苦しみを与える事があります。でもこうした名もない草花が私たちの疲れた心を癒してくれることもあります。その中で私たちは生活を全うするのみなのでしょう。

 

だから私はハッピーエンドの映画が好きだし、メジャーコードの歌が好きです。辛くて苦しい事、悲しい事は現実にあるものだけで十分だと思っているのです。

 

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春の息吹

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花粉(この茶色い花粉が飛んでいくんだ・・・、辛いですね)

 

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新芽・・・、これから芝がどんどん青くなっていきますね。

 

船カンにて、3/12/2015

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東京マラソンとアミノピュア

今日は東京マラソンでした。残念ながら日本人選手は2時間10分を切れませんでした。

 

数週間前から、アミノピュアをお求めにいらっしゃる方がポツポツお見えになりました。

 

定期的に購入されている常連さんもいるのですが、ここのところ初めての方も増えていました。

 

そうか、東京マラソンの準備の為なんでしょうね。東京マラソン特需です。(と言っても数人ですが(笑))

 

ここでアミノピュアを買われる方は、健康維持の為に使われている方が多いのですが、市民ランナーの方もいるようです。

 

アミノピュアは市民ランナーの方には結構知られているのです。

 

ある有名なランナーの方が自身の著書に、アミノピュアの効果、またどう使うのか(マラソンなら何キロ時点でどれほど飲むのか・・・、等々)書いて下さっているのを読んで買いに来る方が多くいます。

 

私は全くそういう事に詳しくないのですが、その方(岩本能史(のぶみ)さん)は世界各地で行われているウルトラマラソンで活躍されていて、また市民ランナーの指導にも当たっている、ランナーの間では知られた存在なんだそうです。

 

今年もアミノピュアとともに東京マラソンを走った方が大勢いた事と思います。みなさん、いい記録で完走されている事を祈ります。来年も宜しく(笑)!

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2、3月の診療

助手の池野さんの退職に伴いスタッフが入れ替わりますが、2月末から3月、4月初めにかけてどうしてもスタッフの都合をつけられない日が数日発生します。

 

その数日は予約を入れられるケースが限られてしまいます。出来る限り患者さんにはご迷惑をおかけせぬように努めますが、ご不便が生じることもあるかも知れません。

 

申し訳ありませんがどうかご理解、ご容赦のほどお願い致します。

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続・武士の実力(三十三間堂通し矢からの考察)

もう30年くらい前でしょうか?テレビで「通し矢に挑戦」という企画があり、私は漫画の通し矢物語でそのことに興味を持っていましたので、興味新々でその番組を見た記憶があります。

 

現代の弓の第一人者が弓具店と協力して、カーボンやグラスファイバーを使ったハイテクの弓、矢を使い通し矢に挑戦しました。あまり通せなかったと言うおぼろげな記憶しかありませんでしたが、ネットで調べるとその番組のことはすぐに見つかりました。

toushiya_3その時の映像です。

 

江戸時代から続く老舗の弓具店(神田に本店があるそうです)がテレビ局とタイアップしてやった企画のようですが、結果として100本射たうち通ったのは9本でした。弓道人口は少ないとは言え、現代(30年前当時)の技術を駆使して作った道具を高名な弓道家が使って一割も通せなかったのですね。

 

ウイキペディアによると、江戸時代に通し矢の記録が更新されていた時期の成功率は概ね60パーセントを越えていたのです。(中には70パーセント越えも・・・、一昼夜通してです。)驚きの数字だと言わざるを得ませんね。

 

丸一日その強弓を引き続けるということ自体、私には想像もつかない程の当時の武士の強靭さをあらわしているように思います。

 

朝岡平兵衛さんが51本通して天下一の額を奉納したのは関ケ原の合戦の6年後のことでした。朝岡さんは戦国武将として名を馳せた豪傑だったそうです。この10年ほど後に大坂冬、夏の陣があります。彼がそこにいたのかどうかはわかりません。

 

記録が何千本と増えて行った頃には、藩の名誉をかけて才能のある武士を若い頃からこの通し矢の為に英才教育を施して代表となる弓道家を育てて行くようになったようですが、慶長年間にはまだそこらへんの豪傑が我も我もと天下惣一目指して挑んで行ったのでしょう。

 

つまり数百本通せるくらいの武士はたくさんいたと言う事になります。武士は凄かったんですね。

 

戦国の世が終わったばかりですから、戦で命のやり取りをして生き残って来た強者が大勢いた時代でした。そういう時代を生き延びて行くにはそれは大変な修行を積んだのでしょう。負ければ命がない・・・、まさに命がけだったんですね。

 

徳川の時代になり戦争はない平和な世であったはずですが、この通し矢の記録を作ることが天下一と言われるようになると、それに挑戦して敵わず、藩の名誉を穢したとして切腹して果てた武士も多かったそうです。平田先生の「弓道士魂」によると、慶長年間だけでも25名が切腹した、とあります。(出典は不明です)

 

スポーツのような競技かと思いきや、まだまだ命がけの争いをしていたのです。オリンピックの金メダリストとて、本当に命をかけて戦う訳ではありません。そこに違いが生まれるのでしょうか?

 

例えばハンマー投げで世界を制した室伏広治さんのような人を、若い頃から通し矢の練習にはげませれば昔の和佐大二郎と競うような記録を作れるのでしょうか?ちなみに和佐さんは6尺を越える大男だったそうです。181センチ以上・・・、当時の日本人の平均身長は156センチ前後だったと言われています。

 

今ならば(平均身長は171センチほど)1メートル95~2メートルくらいの感覚でしょうか?ただ当時記録を作っていた武士たちがみなそのような大男ばかりだったわけではないでしょう。

 

かのローマ帝国の軍人たちもガリア人に比べれば身長は低かったらしいですが、鍛え抜かれた強靭な体躯を誇っていたそうです。スパルタ人もギリシャ諸都市最強だったと言われていますが、ミケランジェロの彫刻や、古代ギリシアの彫刻よりもはるかに筋骨逞しい肉体を持っていたのかも知れませんね。

hherakuresuヘラクレスspartaarchmus020スパルタ戦士

 

通し矢は全国的な流行となり、浅草にも江戸三十三間堂が創設され、幕末に至るまで京都よりも多様な(大矢数だけではなく)種目が行われていたそうですが、京都の記録を上回ることはありませんでした。

 

東大寺でも(若干の距離などの違いはありましたが)通し矢が行われていて、天保13年にはのちに新選組に入隊した安藤早太郎(当時挙母藩士)が21時間の間に11500本射て8685本通しました。三十三間堂とは仕様が違うため新記録とはみなされませんでしたが、凄い記録だと思います。

 

彼は紀州日置竹林派応心流の射術の使い手だったそうで、脱藩後、新選組に入り、あの有名な池田屋事件で負傷し、その傷の為に一か月後に死亡したそうです。

 

明治に入り、明治32年に慶応大学弓術部の初代師範であった若林正行が4457本を通したのが記録として残っているものでは最後だ、とウイキペディアには書かれていますが、これも出典は不明です。

 

私がネットで見た限りでは、彼は摂津高槻藩士弓術・砲術師範の長男で、18歳の時に日置流免許皆伝を受け、父の後を継いだとあり、明治28年に京都三十三間堂で100射試みて55本を射通したとされています。

 

彼の父、若林泰次郎正宣は天保9年(1838年)に京都三十三間堂で100射中91本を通したそうです。

 

安藤早太郎さんは実際に命のやり取りをして散りました。若林親子は実戦は経験しなかったかも知れませんが、幕末、明治とは言え、武士たるものは命を懸けて戦う心構えを持って武芸に励んでいたのでしょう。

 

30年前に高名な弓術家たちがチャレンジして100射中9本通したことと比べて見てもあまりにも差があり、また昔の武士はそれを一昼夜続ける強さがあったというのは、もう異次元の強さとも思えてしまいます。いやぁ・・・、どんだけ強かったんでしょう・・・?

 

「氷川清話」からの引用ですが、勝海舟さん曰く「本当に修行したのは剣術ばかりだ・・・ほんに身体は、鉄同様だった。」・・・、殆ど寝ずに修行したように書かれています。

 

「・・・、昔の武士は、身体を鍛えることには、よほど骨を折ったものだよ。弓馬槍剣、さては柔術などといって、いろいろの武芸を修行して鍛えたものだから、そこでおれのように年は取っても身体が衰えず、精神も根気もなかなか今の人たちの及ぶところではないのだ。」

 

等々・・・、また、武士はいざとなれば命を投げ出す覚悟があったということも言っています。平和な時代に生まれ育った私たちには計り知れないものがありますね。

 

現在は通し矢と言うと、成人の日前後に弓道の有段者たちが晴れ着を着て三十三間堂の庭で60メートル先の的に射かける行事の事を言うようになったようです。

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サムライの世には全く違う通し矢がここにはあったんですね。

 

蛇足ですが、「矢継ぎ早」と言う言葉は、京都三十三間堂の通し矢で次から次へと矢を継いで速射していたことから生まれたとも言われています。真偽のほどは解りませんがなんとなく解るなぁ・・・。

 

 

 

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武士の実力(三十三間堂通し矢からの考察)

昨年でしたか、御茶ノ水駿河台下にあった書泉ブックマートが店を閉めました。書泉の幾つかの店舗の中では漫画やちょっとオタクっぽい本が置いてありました。

 

私の息子が小・中学時代に(高校入ってからもか・・・(笑))よく参考書を買いに行こう・・・、と言われ三省堂へ連れて行きました。しばし本棚を眺め、「今日はやっぱりいいや・・・」とか言って、彼の本命の書泉ブックマートへ行き漫画を買ったものでした。(笑)

 

私も漫画少年、漫画中年でしたから、息子が欲しいコミックを選んでいる間、私も自分の好きな棚を眺めて楽しんでいました。結構昔の漫画の復刻版など、他の書店では見られないものが多く置いてあったのです。

 

あるとき、「おおぅ~~~!こりゃあ懐かしいわい!」と手にとった平田弘史先生の「弓道士魂」、ついつい買ってしまったなぁ。三十三間堂で行われていた通し矢の話です。私が高校生くらいの頃連載されていて大好きな漫画でした。

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京都の三十三間堂と言えば、中学の修学旅行で行った記憶があります。軒に矢の傷跡があったのを見たような気がします。

 

三十三間堂の通し矢って、どの程度皆さんに知られているのかなぁ?有名なのか、はてさて・・・。

 

今年も成人式の記念行事として振り袖姿で弓を放った方々が多くいた事でしょう。

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華やかですねぇ・・・。

 

通し矢についてネット検索すると画像はこんなのばっかり出て来ます。成人式の人気スポットなんでしょうか?

 

私にとって通し矢はこんなイメージでした。

通し矢1

 

武士の時代に大流行したと言われる「大矢数」です。京都蓮華院(三十三間堂)の西側軒下を南から北に矢を射とおします。一昼夜(丸一日射続けるんですね)かけて何本通したか、総数を競う過酷な戦いでした。

 

伝説では平安時代末期に始まったと言う話があるそうですが、記録が残っているのは安土桃山時代の頃からだそうです豊臣秀次が「ここで射術をしてはいけませんよ」と言う禁令を出した記録が残っているそうです。

toosiya5ここを射通す訳です。長さ121.7メートル、高さ4.5~5.3メートル

 

江戸時代に入って1606年に清州藩の朝岡(浅岡と言う説も・・・)平兵衛という武士が100本射て見たところ、51本通った、と言うのが通し矢として明確な記録が残っている最初のものです。

 

その後、われもわれもと天下一の称号をかけて記録に挑むようになりました。三十三間堂は天下惣一を争う競技場となったのです。(新記録を達成すると藩が「天下惣一」の額をお堂に掲げるようになりました。)

 

徐々に記録は伸びて行き、1000本を超えて行きます。また、実施にはかなりの費用も必要となり、藩の援助なくては挑むことは敵わなくなります。

 

最終的には尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈して来ました。そのことを描いたのが平田弘史先生の「弓道士魂」です。いやぁ、精緻な絵とドラマチックな展開は数十年ぶりにあらためて読んでも感動する思いでした。

toosiya3たくさんの見物人が集まるようになったようですね。

 

知りませんでしたが、元々江戸時代から、講談の一目として楽しまれていたようです。かなり昔(太平洋戦争終戦直前の1945年に)長谷川一夫さん、田中絹代さん主演で映画化もされたそうです。

 

講談、昔からの言い伝え等を元にして映画、漫画が作られたんでしょうね。藩のメンツをかけた戦いになった通し矢の記録に挑むために、武士たちはどんな過酷な修行を積んだんでしょうね?

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最終的には23歳の和佐大八郎(紀州)という若武者が8133本の大記録を立てたあとは記録が伸びず、徐々に挑戦するものがいなくなっていったと言う事です。(18歳と書かれている記事も多くありますが、恐らく18歳で初めて7000本越えを果たした葛西園左衛門と混同しているのではないか?と思われます)

 

一昼夜で総矢数13053本射たうちの8133本を射とおした訳ですが、単純に計算して1分間に9本射なければいけません。実際には肩を痛め、かなりの時間休んでから再開したという話があります。であれば1分間に10数本射続けた・・・、5秒に1本以上の早打ちです。

 

これがどれほどすごい事なのかは見当もつきません。使われた弓は推定25~28キロの強弓だと言われています。弓道については何も知らぬ私です。どれだけ強い弓なのかもわかりません。

 

ある大学弓道部のHPにあった通し矢に関する文章を見ると、「今ではそれだけの強弓を引ける者は稀である。」と書かれています。また「それを一昼夜、10000回以上射続ける、と言う事は並々ならぬ鍛錬を必要とするだろう。」とも記されていました。

 

何と比較出来るのか解らないけれど、例えば10キロの鉄アレイを何時間(何分間?)カールし続けられるだろう・・?高校生の頃には腕立て伏せも100回位やったことがありますが、最後は腕がブルブル震えて曲げた腕を伸ばせなくなりました。ほんの100回です。(今は10回くらいしか出来ない身体になりました(笑))

 

ちょっと話が長くなりそうですね、また、続編に続く・・・・、と言う事にしましょうか・・・。

 

 

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続・多摩ヒルズGC

スタート時間になり、1番のティーグラウンド近くに集まりました。

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右隣のティーはイン10番ホールのティーグラウンドです。そこから3人のゴルファーがティーショットを終えカートに乗りセカンド地点に向かっています。

 

スチュアートさんが「今あそこにいる中の一人は、横田空軍基地の司令官です。もう一人副司令官もいます。つまり横田基地のトップ2があそこにいる訳です。」と説明してくれました。

 

「それじゃぁここからスライス打つわけには行かないね。」と私が言いますと、スチュアートさん、「はい、今はマズイです。もう5分ほど待ってからにして下さい。」とジョークを返してくれました。

 

いやぁ~、そんな偉い人たちがここでは普通にゴルフしてるんですねぇ、どスライスしてボールを当てたりしたら大変です。この方々が日本の空を守ってくれています。日米防衛協力関係に水を差すようなことは避けましょう(笑)。

 

さて、私は松田さんと同じカートに乗り、リン先生、スチュアートさんと同組で回ることになりました。リンさんがティーペグを投げて打順を決めます。ティーの先が向いた方向にいる人が一番手、3回ティーを投げます。日本とは違う決め方ですね。

 

カートに積んであるドクター・リンのバッグには、それは美しいミズノMP33アイアンが入っていました。ドクター・キムが「リンは上手いですよ。」と言っていましたが、このクラブを見るだけでわかります。私の友人のGt君のMP32よりはオーソドックスな形状のマッスルバックです。さて、どんなゴルフをするんだろう・・・?

 

mizuno33ミズノMP33   mizuno32MP32

 

前にはゴルファーは見えません。後ろの根本先生の組の後にもだれも来ないようです。東京の週末にこんなにすいているゴルフ場は他にはないでしょうね。前が詰まることがありませんから、殆ど写真を撮るヒマがないままにプレーして行きました。

 

スチュアートさんはまだゴルフ歴があまり長くなさそうです。100切りまでもう一息、と言うところまで来たかな・・・?と言った状況らしいですが、堅実なプレーを続けていました。

20151101_140320 (2)スチュアートさんです。ナイススィング!

 

リン先生、いやぁ・・・、まるでプロみたいです。綺麗なスィング、飛距離も凄い!私のドライバーと殆ど同じ距離を3-アイアンで打って来ます。220~230ヤードですよ!(彼は飛びすぎるので、フェアウエイバンカーを避けるために度々アイアンでティーショットを打ちました。

 

数ホールパーを続けます。間違いなくローハンディキャッパーでしょうね。子供のころからバスケ、野球、いろんなスポーツをしてきた中の一つがゴルフだそうで、今はゴルフだけだね、と教えてくれました。

 

松田さんもいつも通りそつないプレーでパーを重ねて行きます。アプローチ上手いなぁ・・・。前半終えて41回で終わっています。

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地形を生かした設計の美しいコースです。所々アップダウンのきつい箇所もあり、歩きでは我々年寄りには少々きついかも・・・。ベント、コウライの2-グリーンですが、この日はベントグリーンでした。砲台グリーンは小さめですが、結構な傾斜と微妙なアンジュレーションがあり、難しかったです。リン先生は後半パットのタッチ、ラインが微妙にずれて苦しみました。

 

ラフはさほど深くなく、芝は何なんでしょう?野芝やコウライではなさそうですね。芝が柔らかいので逆目のラフでもヘッドが抜けやすく安心して打てました。距離によってはラフからでもパターでアプローチ出来、イップスの私には大変気持ちを楽にしてくれました。

 

私はここのところ調子を上げて来ているドライバーが絶好調、バンカーが少なく浅いラフでパターを駆使してのアプローチで大きなミスもなく久々の50切り、49で大満足の前半でした。

 

ちょうど12時くらいです。1番、10番ティーグラウンド前にある小屋(キャディーマスター室も兼ねています。)にあるスナックバーで、アメリカ軍人二人はホットドッグを頼み、さっと食べてスチュアートさんが流ちょうな日本語で「ごゆっくりどうぞ、」と言ってカートに乗ります。

 

彼は、よく外国人に見られるアクセントもなく綺麗な発音の日本語を話します。どこで覚えたの?と聞いてみました。なんでも、20年ほど前に初めて日本に配属された時、交換士官制度で日本の航空自衛隊で勤務したんだとか。

 

それから、アメリカに帰ったり、また日本の他の基地で勤務したりして、トータルで15年近く日本にいるんだそうです。よく日本語も覚えましたね。米軍の中では日本のスペシャリストなのでしょうか?。これからも日本で活躍されるのかもしれません。「航空自衛隊には本当にお世話になりまして感謝しています。」と謙虚に話していました。

 

私と松田さんはツナと卵のサンドイッチを(松田さんはそれに加えてホットドッグも・・・)頂き、10分ほどでカートに戻りました。日本と違い、ここでも現金で払います。財布はポケットの中、クラブハウスには貴重品ロッカーなどはありません。

 

さて後半戦。

20151101_094522練習グリーンからの風景です。

 

広々としています。数ホールを除いて隣のホールとは完全にセパレートされています。林と言うよりはブッシュですね、入ったらアウト、ロストボールかOBです。解りやすくていいですね。ボールを探す手間が省けますし、船カンでは林から出すのに苦労する私には楽な作りです。

 

芝のメンテはとても良いです。しかしグリーンが早い!スチュアートアートさんは一筋違いの惜しいパットが続きます。ドクター・リンも次第にパットのラインが微妙にずれて来てタッチも合わなくなり、納得のいかないハーフになってしまったようです。

 

私はドライバーがまたもや乱れ始め、あるパー4でなんと2OB+1ロストボール、12回も打ってしまいました。ただ一人松田さんのパットがさえにさえます。長いパットを決め続け「ワォ~~!」と言うみんなの声援を浴びます。「He is hot!」

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向こうに府中の東京競馬場が見えました。ヒルズと言うだけあって高台なんですね、所々美しい景色の場所がありました。スモッグが少ない日は富士山がよく見えるそうです。

 

さて、私です。大たたきもありましたが、この日はアプローチイップスの症状がいつもよりも軽かったことも幸いし、ここ数ラウンドとは大違いの104と言ういいスコアで上がることが出来ました。

 

芝生が良くてウエッジがよく滑ってくれたことがありました。そして、不安な気持ち、体がこわばる症状はありましたが、いつものように体が動かない、手が動かないような強い症状ではありませんでした。

 

あとで思ったのですが、この日は同組のアメリカ人プレーヤーとずっと英語で話していました。私は10年間アメリカに住んでいた割には英語はあまり得意ではありません。かなり集中していないと会話が出来ません。

 

その為に、(イップスって本当にメンタルの問題なので)そちらに気持ちが行っていて、アプローチの怖さを感じる余裕が無かったのかも知れません。ラフが易しく、パターでアプローチできるケースが多かったことも幸いしました。でもなんか、アプローチイップスと少し仲良く付き合って行くヒントを貰ったかもしれないなぁ・・・。ならば良いのですが・・・。今月の船カンでどうなるか?楽しみです。

20151101_140324 (2)数少ない2ホール並んでいる、また池のある風景です。ラフの感じがわかるでしょうか?

 

あっと言う間に18ホール終了しました。松田さん、さすがの82、リン先生もおなじくらい、スチュアートさんはパットに苦しみながらも私よりは少し良かったようです。本当に楽しい時間を過ごさせて頂きました。お二方にお礼を言ってグリーンを後にカートで駐車場へ行きキャディバッグを車に積みます。

 

根本先生たちも降りて来ました。ドクター・リンは彼のキャディバッグをドクター・キムに任せ、なんとハーレーに乗って手を上げて走り去りました。「カッコイー!」と言うと、スチュアートさん、「暴走族みたいだよ!」とまた綺麗な発音の日本語で笑わせてくれました。

 

キム先生や相原先生、及川先生とも挨拶をして、私も帰路へつきました。10時スタート、午後2時過ぎにはラウンドを終えました。アメリカンなゴルフでしたね。日本のゴルフ場ならお風呂につかって・・・、となるのですが、そんな施設はありませんから、さっさと帰ります。

 

最近日本のゴルフに慣れてしまい、昼にのんびり飲みながら昼食休憩したり、まったりとしたゴルフを楽しみようになっていましたが、久々にこういう経験をして、たまにはこんなゴルフもいいなぁ・・・、と感じました。

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これはクラブハウスで買ったボールマーカー、各ホールのヤーデージが書いてあります。老眼鏡をかけなくては見えない私にはプレー中には役には立たないんですが、面白いですね。

 

ちなみにクラブハウスでもスナックバーでも従業員の方々は殆ど日本人(あるいは東洋系の方)で、英語も話しますが日本語が通じました。いやぁ~助かったわい(笑)。

 

 

 

 

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多摩ヒルズゴルフコース

先日、根本先生からゴルフの誘いを受けまして、「是非お供させてください」と二つ返事で同行させて頂くことになりました。

 

根本先生の友人でアメリカ軍の横田基地所属の歯医者さんがいるそうで、その方に多摩ヒルズゴルフコースというアメリカ軍のゴルフ施設でプレーさせて頂けるとのこと、興味深々です。

 

11月1日(日)9時にゴルフコースの駐車場に集合、10時スタートの予約をとってあるということでした。のんびりと朝8時に家を出ました。

 

コースは中央高速の稲城を出てほど遠くないところにありました。近いなぁ、亀戸から40~45分ほどで早めに着いてしまいました。近づくいてくると道の左側が鉄条網で仕切られています。この向こうがそのゴルフコースなのでしょうか?

 

横田基地からは離れていますが、駐車場の入り口にゲートがあり、そこからはアメリカ領土です。そこで身分証明書を提示して、誰の招待で何時のティーオフタイムか聞かれます。私はパスポートを持っていませんが、日本の運転免許証を出し、暗証番号を入力して通してもらいます。

20151101_091719トラックの向こうの小屋で手続きしました

 

程なく根本先生が友人のDr. Kimを乗せてやってきました。キム先生は韓国系アメリカ人の歯医者さんです。将校なんでしょうね。

 

一緒に階段を上がり、クラブハウスへ・・・。そこでチェックイン、グリーンフィーを払います。100ドルでしたが、もちろん日本円しか持っていませんが日本円も使えます。1万2千円ほど払って住所氏名などを書いてサインします。するとカートの鍵をくれます。カートに乗って駐車場へ戻りキャディバッグをカートに載せます。

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アメリカのパブリックコースとおなじシステムだと根本先生に聞いていましたので、着替えなど持って行っていません。靴だけ履き替えてそのままの服装でプレーします。

 

ロッカーはメンバー用はあってもビジター用はないそうです。荷物が少ないと楽ですね。昔アメリカにいた頃を思い出しました。

 

そのころ松田さん(アメリカで根本先生、私と同じロマ・リンダ大で一緒だった先輩で経済学部を卒業された方です。)、及川先生(アメリカ、ネブラスカ州のクレイトン大学の歯学部を卒業し、荻窪の衛生病院歯科で根本先生の同僚でした。今は原宿にオフィスを構えています。私の患者さんでインプラント希望の方には及川先生を紹介して行ってもらっています。)もやって来ました。もう一人矯正歯科医のアイハラ先生(私は初めましてだったのですが、漢字が解りません。シツレイ!)もいらっしゃって紹介されました。

20151101_091755松田さん、社長さんです。

 

20151101_091700及川先生

 

下のドライビングレンジでそれぞれ練習を始めました。私は横にあったアプローチ練習場でイップスに悩むアプローチの練習だけします。

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20151101_092659青いセーターが根本先生、後ろの白いセーターはキム先生です。

 

さて、スタート時間がせまって来ました。私は先に上がってクラブハウス前の練習グリーンでグリーンの速さを確かめます。いやぁ~、このグリーンは速いぜぃ。練習を切り上げた皆さんも上がって来ました。

 

そこでキム先生の友人二人とお会いしました。Dr. Rhin(リン先生)は歯医者さんでも歯周病の専門医だそうです。アメリカでは専門医になるには歯科大卒業後、大学院へ行き、卒後に国家試験を受けて資格をとります。優秀でないとなれません。

 

もう一人はスチュアート・リムさん、医師ではなく、adminisitrator だと紹介されました。横田基地の管理職、40代半ばかと思われますが、偉いんでしょうね・・・。左官クラスかな・・・?聞きませんでしたけど。

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スタート前に練習グリーンで写真を撮らせてもらいました。右がキム先生、真ん中がアイハラ先生、左がリン(リム?)先生です。彼はジーンズ姿です。アメリカンですね、日本のメンバー制のゴルフ場ではこんなカジュアルな服装では怒られてしまいます。私もアメリカ時代はこんな感じでゴルフしてました。

20151101_095813 (4)逆光だったのでもう一枚。

 

右から3人目がスチュアートさんです。リンさんはメリーランド出身、スチュアートさんはハワイ出身だそうです。それぞれ中国系、韓国系のアメリカ人とか・・・。

 

さて、いよいよスタート時間です。ちょっと長くなりそうなので、今日はここまで・・・。続編に乞うご期待・・・!

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